賢者の創作石

Philosopher’s Art Stone

一期一会 ★ 言語と非言語のコミュニケーションの街

 

私はどちらかというと、何かを何かのカテゴリーに入れて話すと

自分の思うことを正確に表せなくて難しいと感じているけど

今回はカテゴリーに入れて話さなければ話が進まないという事態になるので

敢えてカテゴリーだらけになる。

 

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オーストラリアのシドニーから車で3時間ほどドライブすると

6年間住んでいた、ある田舎町がある。

多国籍住人の割合が多く、田舎のわりにはかなりコスモポリタンなところで

すぐに歩き尽くせる小さな中心街では顔見知りの多様な人々に高い確率で出会った。

 

 

顔見知りの一人にインカ帝国の末裔の男の人がいて

印象深く思い出すのは、中心街で会うと立ち話を延々として

毎回最後に彼のお祖父さんの教えをひとつ落して去って行く。

 

彼は多分全然そういう風に見えるタイプの人ではないんだろうけど

こうして思い出してみると、なんかカワイイ人だなあという印象が残っている。

 

 

 

その頃私は肌が日に焼けていたので、日本人に見られることはほとんどなく

よく南アメリカインディオか、アメリカンインディアンと思われていた。

たまたま滞在中のアメリカンインディアンの人とも

親しくしていたベジタリアンレストランを経営するファミリーを介して出会って

レストランでおしゃべりをする貴重な機会がしばらくの間あった。

 

 

インターナショナルパーティもたびたび開催していて

多様な文化の音楽や踊りが、プロではなく

住人のパフォーマンスで披露されていた。

 

私も毎回お声がかかり、出来る限りダンスと歌で参加した。

でも日本舞踊のような踊りは私にとって別世界だったので

ダンスでは日本文化を紹介できなかったのは残念だったけど

と同時に、とてもじゃないけど私一人で日本を代表するなんてムリ

とも思っていた。

 

 

歌は、古謝美佐子さんの歌声が大好きで子守唄の『童神』を息子に歌っていたので

歌の時はその歌を選んだ。

機材などそんなに恵まれた環境のパーティではなかったので

出来映えには全然満足感はなかったけれど、それでも(自分には意外に)反響がよく

喜ばれたことに私も喜びを感じていた。

 

 

息子はその町で生まれたので、その頃は赤ちゃんで

小さなカワイイお姉さんたちにモテモテだった。

その中に眼が鋭いのにとてもかわいらしいクルド人の女の子もいて

笑顔で息子に夢中になっている、思いっきり無邪気な顔の背景にある

思いっきり残酷な悲劇も、同時に事実そこにはあった。

 

今ここにいる理由はまさにその残酷な悲劇なのだから。

 

 

 

毎回楽しいパーティだったけれど問題もあった。

そこでのアフリカンの友人(といってもそれまで聞いたこともない国の名で

今ではどこの国だったかも忘れてしまっている私は友人失格だけど)

と一緒に、一時期習いに行っていたブラジル人のダンスの先生が

そのパーティである年、ダンスを披露した時だった。

 

彼女のダンスではリオのカーニバルのような感じの

肌を露出するタイプの衣装を着ていた。

それをきっかけにイスラム教を信仰しているファミリーたちが

次回からしばらくパーティを辞退するようになった。

子供も来るパーティでけしからんという反応だったらしい。

 

でもそのブラジル人の先生にとっては本当にそれが自然だったし

そういう環境で育ったんだから当たり前というのが私にも

他の半分位の人にも伝わっていたし、子供たちもワイワイ寄ってきて

はしゃいでいた。

 

これに関しては両方の言い分がもっともで

いろいろと考えさせられる出来事になった。

いくら考えさせられても答えなんて出ていない。

 

 

この町のすぐそばにはアボリジニーが多く住んでいる場所があって

街でアボリジニーの人たちとすれ違うこともたびたびあった。

私は赤ちゃんの息子を前にぶら下げて歩くことが多く、

そういった時は特に、どちらからともなく'Hello.'と挨拶しあった。

 

アボリジニーの人々はアボリジニー同士ではそんな感じであっても

アボリジニー以外の人で知らない人に'Hello.'なんて言うことは滅多にないが

なぜかそういうことがよくあった。

 

'Hello.'と言っていてもそれはおまけで

目と目のアイコンタクトの挨拶がメインな感じがした。

そこには目と目で会話できる不思議な感覚があった。

 

私も目で会話しようという意志を示したから

どちらからともなく挨拶したのかもしれない。

 

 

これはただ単に私個人のイメージなのだけど

こういう時は裏でコミュニケーションが行われているように思える。

自分の後ろにピッタリとついている自分より大きい存在と

相手の後ろの存在が直接コンタクトをとっているかのように思える。

そして自分の情報と相手の情報の交換はかなりのビッグデータであるような。

そう思うことで腑に落ちることがよく感じられるから。

 

結局は本当にそうかどうかっていうよりも

そう思うのが好きって言うただの好みなんだけどね。

 

 

ある夜、夜中の3時頃、風に当たりに外に出ると

アボリジニーの男の人が家の前に立っていた。

彼は煙草が欲しいと言う。

 

夜中の3時であるし普通はそういう行動はとらないかもしれないけど

たまたまその夜はシドニーから友人たちが泊まりにきていてダラブカなどを叩いて

太鼓セッションをしていたので招き入れ、煙草を渡した。

 

そして自然な流れで太鼓セッションを一緒にして

アボリジニー特有の歌まで歌ってくれた。

 

最後にアボリジニーのハイタッチに当たる、手を使った動きを私に教えてくれて

朝方その人は帰って行った。

 

次の日公園でたまたま、アボリジニーの絵を売っている

アーティスト(別の人)と出会い

教えてもらったハイタッチを使う機会があった。

相手の人はとっても素敵な笑顔になり、私はすごーくいい気分になった。

 

私はこういう瞬間が、生きてる!っていう感じがしてとても好きなようだ。

もう会うことはたぶんないだろうけど決して忘れられない。

 

 

 

そこは田舎町なのに地球1個がまるまる凝縮されたようなところだった。

 

 

 

またいつか訪れることはきっとあるんだろうな。

 

ただ、その時にはもちろん同じ街ではないだろうけど。

 

 

 

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