ふっちゃんを忘れない
オーストラリアに初めの1年はワーキングホリデービザで滞在した。
その時に一緒に住んでいた人と結婚する予定があったから
日本には一時帰国で数ヶ月滞在してまたオーストラリアに戻ってくる予定だった。
日本に帰る1ヶ月半前に友だちのふっちゃんから手紙が届いたけど、
私は返事を書かなかった。
あと1ヶ月半で日本に帰ったらふっちゃんに電話して
突然驚かしてやろうと思っていた。
日本に帰ってすぐ次の日、ふっちゃんの家に
遊ぶ約束をしよう、どんな顔して驚くだろうとわくわくしながら電話をした。
ふっちゃんのお母さんが出た。
挨拶をしてふっちゃんに変わってもらおうとすると、
「○○○は亡くなりました。」と聞こえ、しばらく意味が耳に入ってこなかった。
「え?」
何も考えられなかった。
手紙ももらっているし意味がわからなかった。
しばらくあとで理解したのは
ふっちゃんが一週間程前にビルの6階から飛び降り自殺したという現実だった。
次の日、ふっちゃんと共通の友だちに
ふっちゃんの家へ一緒に行ってもらった。
前日からボーっとした状態が抜けなくて一人では行けなかった。
お線香をあげた後、
お母さんが机の引き出しから、ふっちゃんから私への
送っていない最後の手紙を出した。
『○○、どうして返事をくれないの?』
から文が始まっていた。
この時の気持ちは簡単に想像できると思うから書かない。
半年前にはふっちゃんから、最近落ち込むことが多くて苦しい
という内容の手紙ももらっていて
帰国するまであと半年だから
その時は一緒に思いっきり遊ぼうと返事をしていたこともあった。
私はふっちゃんの気持ちを少しでも理解したかったので
ふっちゃんが飛び降り自殺したビルの6階に上がって、
ふっちゃんが飛び降りたという小窓から顔を出して下を見た。
自分の持っている6階のイメージよりずーっと高い位置に6階はあった。
自分が飛び降りることを想像すると恐ろし過ぎた。
ふっちゃんはこんな高い位置から飛び降りる勇気があったのか。
なのになんで生きる勇気がなかったんだろう。
自分を責めない努力を精一杯したけれど責めないのは難しい技だった。
私は何で手紙を書かない選択をしてしまったんだろう?
もし手紙を出していたら違う現実があったっていうこともあったのだろうか?
これらの文の最後の『。』を出来る限り『?』に変えた。
これはふっちゃんの運命なのだろうか?
運命だから変えられなかったのだろうか?
それとも変えられたのだろうか?
自分の過去の人生でどんなに失敗しても
自分の辞書に後悔という文字はないと思っていたけれど
この時だけはもしかしたら後悔しているのかもしれないな。
ごめんなさい。
ふっちゃん。